東京大空襲


  

満州鉄道を退社後東京の陸軍省で経理の仕事をしていました。
昭和20年3月9日午後9時30分ごろ上空をB29が数十機ごとに連なって飛んできたそうです。
最初はのんきに、近くの幼稚園の屋上に登ってB29の数を数えていたのですが、次から次に飛んできて焼夷弾などを落として行く為、段々自分のいる方に火が迫って来て「こりゃいかん」と思い自宅へ戻ったそうです。
焼夷弾というのはそれ自体の殺傷能力が高いのではなく、火災を発生させる為の爆弾です。
2種類あってグリスみたいな物が入っているタイプと花火のようなタイプがあるそうです。
グリスみたいなタイプはその油が飛び散って火を発生させます、花火みたいな方は地面に落ちると火柱みたいになると言っていました。
B29は焼夷弾を84個の束にして投下し地面が近くなると自動的にバラバラになって半径300mくらいに着弾するそうです。
ひどい時には1畳に3発ほど落ちる事もあったと言っていました。
自宅に戻って家族に、最初に燃えた方はもう火の手が収まりつつあるのでそっちの方に逃げろと告げ、自分は火を消す為にその場に残って消火活動に当たりました。
大量の火災が発生すると火の熱がすさまじい上昇気流を発生させて台風並みの風が吹いていたと言っていました。
東京には大きな火災に備えて道路の両脇にある家を強制的に撤去させ、道幅100mほどの道路を作ったそうです
ですが、凄まじい突風で火の粉が横に流れて行き、そんなものは意味がなかったそうです。
次第にじいちゃんのいた場所も火が迫ってきてじいちゃんの家の1軒手前までが燃えてしまいました、このままじゃ自分の家が燃えちゃうと思ったじいちゃんは近くの人にはしごを持ってこさせてはしごで手前の家の柱をどついて反対側に倒したそうです。
それでも火の勢いは収まらず壁が焦げだした時、突然風が逆の方向に吹き始め、じいちゃんの家は燃えずに済んだと言っていました。

街の人たちは荷物を持って防空壕に逃げ込みました、中には人がいっぱい居たので荷物を入り口に置いて中に身を潜めていたそうです。
でも入り口の荷物に火が点いてしまい、逃げる事も出来ずに窒息して死んでしまった人が大勢いたと言っていました。
じいちゃんの家族は言われた方向に逃げようとしたのですが火の手が迫ってきたため断念してみんなと一緒に防空壕に逃げ込みました。
しかし入り口に火の手が上がり始めたので「このままじゃ焼け死ぬから出よう」と言って出たそうです、その時近所のおばさんなどが近くにいたので一緒に出るように勧めたのですがやめておくと言われたので家族だけで近くの寺に逃げ込みました、そのおばさんたちは防空壕の中で窒息死したそうです。
爆撃は夜が明けるまで続き、ようやく終わったので家族を探しに行ったそうです。
結局家族は全員お寺に逃げ込んでいて無事でした、家も家族も無事なんて珍しいんじゃないでしょうか・・・
その後陸軍省に出社しようと思ったのですが、電車などが全て麻痺していたため歩いて向かいました。
地面は凄まじい温度になっていてアスファルトが軟化し、歩くと靴がベチョッベチョッと引っ付いたそうです、軍隊の靴は靴底に鋲が打ってあったのですが歩いた跡にその鋲の跡がくっきり付いていたのが印象的だったと言っていました。
歩いているとだんだん靴が熱くてどうにもならなくなり、破裂している水道管から出ている水で冷やしながら、ようやく陸軍省に到着したと言っていました。
いつもなら炊煙が上がる東京に、家ひとつなくなってしまったので浅草から富士山が見えたそうです。